いのちを考える

他人を優先していきているうちは、己の命についてなんて考えていないということ。

私の知人ですごくいっぽん筋がとおっていて強いなと思うかたがいるのだけど、

病気をわずらっていて、自分、家族を優先すると決めていて(わざわざきめていないかもしれない)

彼女はまわりに振り回されることがない。

 

私は、まわりに振り回されたり、いいように使われる。自分を最優先にするべきなのは当然のことなのに、なぜ人にゆずる、人のために生きることを選ぶようにプログラムされているのだろう。

人の下にもぐって、私はこれができます、あれもできます、とアピールしていると、自分の無価値観を感じなくていいので、とりあえずのセキュアが守られる、ひとまず、だれかに譲ってあげて場の雰囲気が戻れば(それは私の我慢で成り立っている)それでよし、えらいよ、ということで、見た目だけ収まった感じになって、その偽りの成功体験をつんできたから故の行動なんだと思う。

 

嫌なことをいわれたら「そういうことをいわれると傷つきます。」(もっというと、そううことを言われるのはすごく嫌ですといえるとなおいい)といわないといけない。

 

20年も昔に、アサーティブコミュニケーションのワークショップに参加したことがある。

昼間の主婦だらけのクラスで、当時子供がいなくて、何者なのかわかりにくい私に興味をもった参加者ABCに子供がいるのかと尋ねられた。アサーティブのワークにでるのに子供は関係ない。いないからいないといったけど、なんとなくいやな感じがした。

だから、ここで本来なら「そういう質問ははじめてあった人に聞かれたくない」っていってよかったのに、へらへらと「いませーん」なんてやってたから、20年たったいまでもあの日のことを思い出すのだ。

なんで嫌なことを嫌だとその場でいえないのか? もめるかな? 喧嘩になるかな? 嫌われたらいやだな、が発動するからなのだと思う。嫌なことされてへらへらしてるほうがおかしいし、嫌でも嫌と言葉でいえないときは、その場を無言で離れてもいいのだ。

 

ある取引先会社のAさんという営業の人が東京にくるということでご挨拶に、ということで新宿であったことがあるのだけど、私をみて、とにかく、最初からずっと「文句」だった。

延々と

同じことを

 

私はのこのこ新宿にこれを聞きにでてきたのかと思うとイライラしたけど、なんとなく話をきいて(はよ終わんないかと祈りながら・・・)2時間くらい彼女の文句をきいてやっとこさ解放された。

だけど非常に腹が立って(後から)もうこいつの顔をみたくないと思い、電話をボイコットした。

しつこく電話があって、最後は電話にでたけど、新宿で面と向かっていえなかったことを電話でかなりはっきりしっかりいった。あんたのへらへら笑いながらいうクレームに耐えられないと。

あれは、私が誰か何かに投影されていて、どうせ何もいってこないだろうと完全になめられていて、彼女のストレスのはけ口になっただけ。それもいった。あんたのストレスのはけ口になる覚えはない。とにかく頭にきた。と。

 

あれー私、いえたじゃん。

 

そしたら急に相手の態度が変わった。その会社とはいまも取引があります。

なので、相手に怒りの感情を伝えるというのは時には大事。何もかも飲むことはない。

ということでした

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