安穏と暮らしているのがいちばん幸せかもしれない。
いままで実際にそうしてきた。子供をしかるときも他者の目線をきにして
ほかの人に迷惑かけるから、みたいなしかりかたをしてきた。
だけど困るのはそうやって子供もしつけられない親の私がどうみられるか? をきにしているからじゃないか?
いい人ぶって、子供とその友達が欲しがったお菓子を友達にあげちゃって、子供になかれたことがある。これ、なんで大事な自分の子にあげなかったのか、私もいみがわからなかった。
どう考えたって自分の子なのになぜ優先してあげない?
というか、いちばんに選ばせてあげなかったのはなぜ? 同時にどっちがいい?と選ばせて同じものチョイスしたらもめるにきまってる。
こんな親に育てられたら、子供はがっかりするだろうなと思って悲しくなった。
子供を下げようとしたこともある。すごいね〇〇ちゃん、って褒められたとき「いいえ、ぜんぜんすごくないです。」ってこたえたことがあった。
自分の子供をイコールもしくは所有物っておもってるからこんな発言を平気でするんだよね。
子供は私とは違う個性をもった一人格だとおもったらこんなふうにいわないでしょ。もしこれが自分の友人だったら一緒に喜ばない? なのになんで下げるようなこというわけ?
いま子供は12歳(もうすぐ13歳)だけど、子供が保育園時代はほんとうに私はひどかった。これを息をするように当たり前に自然にやってたから。そしたら子供に抗議された。「だめじゃない! できる!!」って。ほんとよほんと。そうだよね。そんなふうにいうママが悪い。
で、ある出来事を境に心に興味を持つようになった。40歳になるまで私はあんまり真剣に自分の心に向き合ったことがなかった。
ある出来事というのは、私がこうやって人の下にもぐろうとして、自分を後回し、ないがしろにして、相手を優先させ(たいした相手ではない。なのにその相手を優先させた)面倒に巻き込まれ、お金と時間を失った。そして私は過去にもこういうことがなかったか? 何が原因でこうなったんだ? と、やっとはじめて考えたのだ。そもそも、こういう、暴君を自分の前におこうとするのは私の習性。いやだっていいながら、おいてる。みつけてくる。見事だ。
暴君は好き勝手をする。私は奴隷のように、「私は無価値な人間ではありません、ほら、あなたにこんなこともあんなこともしてさしあげます」といって、せっせと働く。さあ無価値。このキーワードきた。私の弱点。
絶対に絶対に無価値を認めたくない!!!!
この思いだけで生きてるんだ。
無価値って言葉きいただけで逃げ出したくなる。
そして無価値な自分を認めてしまうといったい私はどうなってしまうのか?
死にたくならない? 死ぬアイデアは浮かばない。だけど、無価値なんてみとめたらそのあとどうやって生きたらいいかわからない。(=死に直結しそうで怖い。そうだ。怖いんだ)
それと、一人が好きだとかいって、一人でご飯食べたりするんだけど、本当は一人になるのが怖い。
これもみとめないといけない。一時的に一人の時間をつくるのは好き。だけどほんとにほんとに一人になりたいわけではない。一人は嫌だ。おいていかないで、ってインナーチャイルドはいってる。
たぶん、おいて行かれたことがあったんだろう。小さい時。
妹が、いとこの家に遊びに行ったとき迷子になった。大騒ぎになってみんなでほうぼうさがした。そしたらしばらくくして妹はパトカーにのってご帰還。みんなにちやほやされていた。よく帰ってきた! 一同大喜び。私は嫉妬にかられた。その前に私は容易に迷子にならない。だから迷子にならない人はパトカーでご帰還もしないし、影が薄い存在。
いてもいなくてもどっちでもいい存在。それが私だった(と、思っていた)
明日恐ろしいがセッションを受ける予定。自分の誕生日のプレゼント。だけどこんなマゾっぽいプレゼントをなんでするだろうね?